Youtubeから流れる旋律、酒の酔いに身を任せながら思う。
昭和36年、第二次世界大戦の終結から16年が過ぎた青森市長島。ここの借家の二階が私の生まれた場所だ。産婆さんに取り上げられたらしい。
焼け野原から力強く立ち上がろうとする復興の足音が、まだ街のいたるところに響いていた時代だ。
戦争の傷跡は完全には癒えておらず、瓦礫の記憶とともに、人々は日々を積み重ねていた。復興とは単なる再建ではなく、「失われた時間」を取り戻そうとする、静かな意志の連なりでもあった。
やがて高度経済成長の波が押し寄せ、街は次第にその姿を変えていく。かつての古い呼び名が、新しい地名へと塗り替えられていく過渡期の中で、物心ついた頃には、そこはもう「長島」という名で定着していたが、幼い記憶の断片には、古い呼び名の片岡が、微かに残っている。
時代は決して穏やかに流れていただけではなかった。
復興の途上にあった東北の地は、自然の猛威とも幾度となく向き合うことになる。とりわけ、十勝沖地震は、青森を含む北東北の人々にとって、忘れ難い出来事となった。まだ社会基盤も十分とは言えない中での大きな揺れは、ようやく積み上げてきた日常を一瞬にして揺さぶり、人々の心に深い影を落とした。当時、私は小学校低学年、長島小学校でした。何年生か、はっきりした学年は覚えていない。(調べれば分かるんだろうけど)。「食パンと、いちごジャム」を入れた透明な袋を持たされて返されたことが大きな記憶として残っている。
それでも人々は立ち止まらなかった。
崩れたものを直し、失ったものを数えながら、それでも前を向くという営みを、ただ黙々と続けていった。
あれから長い年月が流れた。2011年、東日本大震災という未曾有の災禍を乗り越えて生まれた命が、2026年、今や15歳となり、自身の未来へと力強く歩み始める年となった。
そして2026年の今、新しくこの世に生を受けた子供たちもまた、かつての私と同じように、大人たちが語る「震災からの復興」という歴史の物語を聞いて育つのだろう。
時間の流れはあまりに無情だ。かつては「あの時はこうだった」と鮮明に、主題として語れていたはずの記憶が、時を重ねるごとに輪郭を失っていく。いつしかそれは、個人の生々しい体験から、歴史を説明するための「連帯修飾語(あの時は→あの時の)」へと姿を変え、記号化され、風化していく。その言葉の色の褪せ方に、抗いようのない寂しさを覚える。
年齢という数字を積み重ねるほどに、脳内に刻まれたメモリーの容量は反比例して減っていくかのようだ。
かつては確かにそこにあったはずの、街の匂いや人々の喧騒、些細な日常のディテール。それらが、時の波に洗われる砂の城のように崩れ、特筆すべき大きな出来事だけが岩のように取り残され、記憶として残る。
それは、十勝沖地震であれ、東日本大震災であれ、時代の節目となる出来事ほど、強く記憶に刻まれる一方で、その周囲にあったはずの無数の「日常」は、静かに消えていく。
酔に連れ、語彙を思い出せず、ステレオタイプの表現だけが頭に浮かぶ、自分に失望する必要はないのかもしれないが、この「曖昧さ」こそが、65年という歳月を生きてきた、何よりの証拠なのだと思う。
むしろ、曖昧になっていく記憶の中にこそ、本当に大切だったものの輪郭が、かすかに残り続けているのかもしれないな。