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前漢の高祖・劉邦の知られざる残虐性 「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」
2019年 06月28日 公開
石平(せき・へい:評論家)
<<評論家の石平(せき・へい)氏は、近著『中国をつくった12人の悪党たち』でこう述べている。
「腹の黒い悪党ほど権力を握って天下を取るのは中国史上の鉄則であって、中国の歴史と中国という国 のかたちはこのようにしてつくられていった。中国をつくったのはまさに悪党たちなのだ。中国の歴史も、中国という国のかたちも、まさにそれらの悪党によっ てつくられているのである。このような伝統は、現代になっても生きている。」
英雄譚(えいゆうたん)、美談に彩られた中国史上の有名人の本質に迫った同書より、本稿では前漢の初代皇帝である劉邦(りゅうほう)について触れた一節を紹介する。>>
※本稿は石平著『中国をつくった12人の悪党たち』(PHP新書)より一部抜粋・編集したもので す。
己の身を守るためにわが子を見殺しにする劉邦の卑劣
最後の勝者 となったのは、一方の劉邦である。彼は秦(しん)帝国との戦いでは振るわなかったものの、項羽(こうう)との天下争奪戦においては、まさにその無頼漢としての本領を思う存分 発揮して、権謀策略や汚い手の限りを尽くしてその天下取りを果たした。
項羽軍との戦争中、己の生き残りを図るために手段を選ばないという劉邦の冷酷さと卑劣さを語るエピ ソードが一つある。
劉邦軍は一度、項羽のつくった西楚(せいそ)国の首都である彭城(ぼうじよう)に 攻め込んだことがある。項羽の率いる主力部隊の留守を狙った奇襲だったのだが、戻ってきた項羽軍が一挙に反撃すると、劉邦軍はたちまち雪崩を打って彭城か ら敗走した。
全軍敗退のなかで誰よりも早く逃げ出したのは、ほかならぬ総大将の劉邦である。彼は息子と娘の二人 を引きつれて馬車の一台に乗って一目散に逃走していた。その後をすぐ、項羽軍の騎兵が追ってきたのである。
そのときのことである。馬車の乗せる「荷物」の量を減らして馬を少しでも速く走らせるために、劉邦 はなんと、わが子二人をいきなり車から落としたのである。
それを不憫(ふびん)に思った馭者(ぎょしゃ)の夏侯嬰(かこうえい)が飛び降りて拾い上げると、劉邦はふた たび突き落とした。このようなことが三度も繰り返されたと、『史記』が記している。
「悪いやつほど天下を取れる」中国史の起源
この人は いったい、どういう人間性をもっているのだろうか。
劉邦のもとに集まってきた武人や策士たちも、じつは彼と同類の人間が多い。策士の一人である陳平 (ちんぺい)という者が親分の劉邦に対して、項羽軍と比較して「わが陣営の特徴」について語るときにこう述べたことがある。
「大王(劉邦)の場合、傲岸不遜(ごうがんふぞん)なお振る舞いが多く、廉節(れんせつ)の士は集まりませんが、気前よく爵位や封邑(ほうゆう)をお与えになりますので、変わり者で利につられやすく恥知らずの連中が多く集まっております」
いってみれば、自分の生き残りのためにわが子の命を犠牲にするのに何の躊躇(ちゅうちょ)いも感じない劉邦という 「人間失格」の無頼漢(ぶらいかん)のもとに、「利につられやすく恥知らずの連中」が集まってできあがったのが、すなわち劉邦の率いる人間集団の性格である。
そして、結果的にはやはり、この「恥知らず」の人間集団が、あの豪快勇敢にして気位(きぐらい)の 高い英雄の項羽を打ち負かして天下を手に入れた。
歴史によくあるような無念にして理不尽な結末であるが、いわば「悪いやつほど天下を取れる」という 中国史の法則がここから始まったのである。
このような法則が生きているなか、項羽のような貴族的英雄気質と高貴なる人間精神の持ち主は往々に して歴史の闇のなかに葬り去られて、劉邦のごとき卑劣にして狡猾()な無頼たちが表舞台を占領して跳梁(ちょうりょう)することが多くなってくる。
その結果、中国史が下っていくにしたがって、項羽流の人間精神は徐々に死滅していき、劉邦のような 「嫌なやつ」たちがますます繁殖していく勢いとなっているのである。
国家の私物化が特徴の中国流「家産制国家」の原点
劉邦が項羽 に勝つという結末は、じつは中国の歴史におけるもう一つの大いなる分岐点ともなった。
周王朝の成立から秦帝国が天下統一を果たすまでの約800年間、中国の政治制度は概して封建制であった。つまり、王様のもとで多くの諸侯が「封土(ほうど)」という各自の領地を自律的に治めるという政治システムで、日本の江戸時代の幕藩体制とも類似している。
その場合、権力の分散による「天下の共有」が封建制の基本理念となっている。
この封建制の伝統を打破して中国史上最初の中央集権的専制帝国をつくったのは秦朝であるが、建国し てわずか十数年後、まさに項羽や劉邦たちの反乱によってそれが潰れた。
そうすると、ポスト秦朝の国づくりに向けて、秦朝以前の封建制に戻るのか、それとも秦のつくった中 央集権制を継承するのか、それは当然、中国史にとっての重要な選択となったのである。
秦帝国の潰れた後、一時的に最大の勢力となって天下平定の主導権を握った項羽は、いかにも楚の国の 貴族の末裔らしく、確実に封建制の再建を目指した。
彼は楚の懐王を天下の王様として擁し、秦朝を倒すのに功のあった武将や旧諸侯を対象に十八の諸侯を 封じてそれぞれに領地を与えた。自らは楚の国の旧領を中心とする土地を領地として「西楚の覇王」と号し、日本でいう「征夷大将軍」のような立場に立とうとしていたのである。
そのとき、劉邦は漢王に封じられて、現在の陝西(せんせい)省にある漢中地方を封土として与えられ た。
彼はやがて「西楚の覇王」項羽に反旗を翻すことになるが、もしその後の漢王劉邦の反乱と勝利がなけ れば、項羽の目指した封建制の再建は成功できたかもしれない。もちろん、それからの中国史も、まったく違った方向へと向かったであろう。
しかし、最後の勝利を勝ち取ったのは漢王の劉邦である。そして、彼はむしろ秦の始皇帝流の専制的中 央集権制の骨格を継承し漢帝国を建てた。漢王はそのまま、漢帝国の初代皇帝となったのである。
『中国をつくった12人の悪党たち』で、劉邦が皇帝となってから、父親の「太公」に対して、「昔親 父は、よく俺のことを家業も治めない無頼だと馬鹿にしていたなあ」と文句をいったことを記述したが、じつは太公はあのとき、家業を興すのに日夜励んでいる 劉邦の兄との比較において三男坊の劉邦の無頼漢ぶりを叱ったわけだった。
そして今度は皇帝となった劉邦は、父親に対する意趣返しのつもりで、上述の文句の続きにこういった という。
「ところで、いまの私の成し遂げた家業は、兄と比べればどちらのほうが多いのか」
つまりこの無頼漢上がりの皇帝は、天下国家というものを、まったく自分とその一族の「資産」のよう なものとして認識しているのである。
蘇秦(そしん)や李斯(りし)や趙高(ちょうこう)の場合もそうであるが、どうやら天下国家を自分たちの「私物」だと見なすところに、中国史上の謀略家たちの最大の共通点がある。
そして、劉邦が家族の内輪で語った上述の本音剝き出しの一言はまた、彼が秦の専制制度を継承してつ くった漢帝国の国家体制の本質をズバリといい得た名セリフといえよう。
要するに、皇帝とその一族による国家の私物化を特徴とする「家産制国家」がここにあるのである。
長い伝統となる「恐怖の政治粛清」
国家そのも のを私物化した劉氏一族の独占的利権を守るために、劉邦は皇帝になった後に、もう一つ大きな仕事を成し遂げた。それはすなわち、かつての功臣たちに対する 血塗れの大粛清である。
皇帝即位後の紀元前202年から前195年までの短いあいだに、彼は漢帝国の樹立に功績があった韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、英布(えいふ)などを、騙し討ちや噓の罪名を被(かぶ)らせるなどの汚い手段を使って、次々と殺していった。
そのなかで、三族まで処刑された韓信の場合もあれば、惨殺後の屍(しかばね)が塩辛にされた彭越の場合もあると いう。
劉邦ならではの卑劣さと残虐性がここにも現れているのだが、天下取りの戦いにおいて彼のもとに集まってきた「恥知らず」の人間たちは、今度は一番恥知らずの親分である劉邦の謀略にしてやられたわけである。
こうして基盤を固め得た漢帝国は、その後もまさに劉邦流の「国家理念」と政治手法をもって天下を治 め、前漢・後漢を合わせた四百年間にもわたって中国大陸を支配した。そのなかで、皇帝を中心とする家産制国家と専制独裁の政治体制が完全に定着させられた。
漢代以後の歴代王朝も当然、国家の私物化と独裁政治の強化を図るのに余念がなく、そのために恐怖の 政治粛清を断行することもしばしばあった。無頼漢皇帝劉邦の残した「国家の私物化」と「恐怖の政治粛清」という二つの遺産は、そのまま中国の長い歴史の悪しき伝統となったわけである。