春の叙勲の季節に思うこと
足るを知り、身を引くという矜持
大人の事情という聞き慣れた言葉、それを払拭し、真の品格を問う
「この公約をやらせてほしい」と頭を下げた、あの日の原点。
選挙に立候補する人は、皆、必死に頭を下げます。「私にやらせてください、応援してください」と。誰に頼まれたわけでもなく、自ら志願して「公のために尽くしたい」と手を挙げて政治の世界へ入っていく。
ところが当選回数が増え、有る年齢に達した頃、議員を終える日が目の前に現実として現れた時、当たり前のように叙勲の話が出てくる。それが「慣例」なのが、国会議員の世界だ。
おかしな話です。自分のやりたいことをやらせてもらい、志が達成された。本来なら「やらせていただいて、ありがとうございました」と感謝すべき立場なはずです。自分の願いが叶った上に、何故、さらに国からの「褒美」の対象に成るのか。私には理解できません。貴方の活動が国益を豊かにしたという事実を、国が引退に当たり感謝の気持ちでの叙勲という話なのでしょう。でも、この様な人物が過去に何人いましたか、という話です。
私は全く記憶にはないですね。知っている人が居たら、箇条書きのリストで教えてもらいたいです。
また、私は全く違った意見を持ってます。国会議員への叙勲は不必要だと考えています。なぜなら、冒頭にも掲げた文章に尽きるからです。議員の立候補、私にこの公約をやらせてください。この言葉に尽きると思っています。公僕です。公僕に叙勲は必要ありません。民間で国益に寄与した人物や団体への叙勲がより国益に合致すると考えているからです。国を豊かにするのは、結局はGDPを稼げる人々だからです。国が直接、利益を出せますか。国民を豊かにできますか。岸田、石破、この二人は無能でした。日本国民を豊かにすることは出来ませんでした。その最中でも、日本国民を食わせてきたのは、民間企業でした。批判は有りました。傷を負いました。血も流しました。GDPのランクを落としながらも、それでも国民を食わしてきました。
この様な世の中に「大人の事情」という特異な言葉がありました。私はこの言葉に強い嫌悪感を覚えます。「大人の事情」、それは曲解を恐れずに言えば、責任の所在を曖昧にし、裏で利害を調整する「賄賂的な響き」を持った言葉だからです。今の日本の政治や社会が抱える醜悪さの根本は、すべてこの言葉の中に隠されているのではないかと思っています。
筋の通らないことを「仕方ない」で済ませ、正論を「大人の事情」で封じ込める。これは、現金が動く汚職よりもさらに根の深い、日本人の「精神的な腐敗」だと思っています。この様な煙に撒くような言葉を免罪符にして、私たちは「恥を知る心」をどこかに置き忘れてきてしまったのではないかと思っています。
遠い先祖から受け継いできた「日本的文化思想」、例えば、外国のお客さまに最高のサービスをして、チップを差し出された時、私たち日本人の100%は、当たり前のように、しかも丁重にお断りします。「自分の職務を全うしただけですから」と言うのです。
この「職責を果たすこと自体が報酬である」という純粋な誠実さと、政治家が「大人の事情」を盾に勲章を受け取る姿との間には、越えられない断絶があります。自ら望んで就いた職務であればなおさら、追加の名誉を求めるのは、自分の「志」が最初から純粋ではなかったと告白しているようなものです。
真に大きな仕事を成し遂げた人物は、自分の成功を吹聴しません。そんなことをするのは、小物が大物を装おうとする時だけです。
「私がやりたいことを、皆のおかげで成就させていただいた」。その謙虚な満足感があれば、勲章などという「個人の飾り」はむしろ邪魔なはずです。
日本民族が古くから持っていた「功成り名遂げて身退く(老子)」という矜持。自分の役割を終えたなら、執着せず、「大人の事情」に妥協せず、静かに去る。その引き際の潔さにこそ、その人の「お里」が現れるというものです。
もし、私にそのような勲章の打診があったなら、私は即座に、固辞いたします。「やりたかったことを精一杯やらせてもらった」という満足感。そして、それを支えてくれた人々への深い感謝。この二つがあれば、私の心はもう十分に満たされています。そこに「大人の事情」が入り込む隙間などありません。
目に見える勲章よりも、次世代に何を残せたか。「大人の事情」という名の不透明な妥協を排し、支えへくれた人達への感謝を胸に、潔く去っていく。
そんな「無私の精神」こそが、今の日本が、そして私たち一人ひとりが取り戻すべき「日本人としての本当の誇り」であると確信しています。