台湾日本人物語 統治時代の真実
(1)「維新負け組」のリベンジ(2020-04-01)

「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」。明治維新の戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)で敗れた東北諸藩を、薩長を中心とする新政府軍(官軍)らが嘲(あざけ)った言葉である。
奥羽越列藩同盟を結成して戦った仙台藩、盛岡藩、会津藩らは「朝敵」「賊藩」との汚名を着せられ、敗戦後の処分は苛烈を極めた。領地没収や石高(こくだか)の削封。重臣らは処刑され、禄を失った家臣の多くが新天地を求めて北海道などへ移住したり、農民となることを余儀なくされる。
薩長ら藩閥出身者が牛耳っていた明治新政府で、これら東北の藩出身者は“冷や飯”を食わされた。
(2)抗日武装勢力との死闘(2020-04-15)
日本軍による台湾の抗日武装勢力の平定

日本の台湾統治は、清の残党勢力らとの「武力衝突」から始まった、と前回(1日付)書いた。
明治28(1895)年4月、日本への台湾割譲を盛り込んだ日清戦争の講和条約(下関条約)が結ばれた。見下していた日本の統治に反発する台湾人勢力は5月、清の官吏、唐景●(とう・けいしょう)を総統(大統領)に担ぎ、独立国「台湾民主国」の設立を宣言する。
日本としては到底看過できる事態ではない。遼東半島の領有権返還を余儀なくされた「三国干渉」同様、欧州列強の関与を期待しての行動であり、そうした状況を招く前に力で押さえ込まねばならなかった。
(3)欧米列強を模倣せず(2020-04-29)

故郷の岩手県奥州市にある後藤新平像
《人のおせわにならぬやう 人のお世話をするやう そして むく(報)いをもとめぬやう》
大正9(1920)年、満州(現中国東北部)ハルビンにつくられた「日露協会学校」(後の哈爾浜(ハルビン)学院)の武道場には、後藤新平(1857~1929年)が書いた『自治三訣(さんけつ)』の扁額(へんがく)が掲げられていた。
「公共心」を忘れた現代の日本人に聞かせたい言葉ではないか。
対ロシアの専門家を育成するために、後藤の肝煎りで創設された同校からは、多くのユダヤ人を助けた“命のビザ”で知られ、リトアニア公使などを務めた杉原千畝(ちうね)や、歌手の加藤登紀子の父で、満鉄(南満洲鉄道)などに勤めた加藤幸四郎(こうしろう)らが出ている。
(4)鴎外父子「医のバトン」(2020-05-13)

日本の医学者。専門は解剖学。専門書の他に、父・森鷗外の回想記と随筆を著した。
文豪の森鴎外は明治28(1895)年5月末、初代台湾総督、樺山資紀(かばやま・すけのり)らとともに、抵抗武装勢力と戦い、日本の統治を推し進める「第一陣」として、台湾へ入った。作家としてではない。軍医としてである。
日清戦争に従軍していた鴎外が、新たに台湾行きを告げられたのは同23日。鴎外の『徂征(そせい)日記』にはこうある。《(翌)二十四日。午後六時樺山台湾総督と横浜号舶に上り(広島の)宇品を発す…》(『鴎外全集』から、以下同)。
台湾に着いた鴎外は、征台軍の進軍とともに北方の港町・基隆から台北へと向かい、早速、活動を始めている。6月15日《近衛(師団の)避病室(伝染病の隔離病棟)を巡視す…》。17日《(日本統治が正式に始まったことを示す)始政祝典を行はる》。24日《台北の兵舎を巡視す》。
(5)台北帝大、南洋研究の拠点(2020.5.27)

国立台湾大学のキャンパス。そのルーツは台北帝大=2018年(田中靖人撮影)
国家を背負って立つ政治家や官僚、財界人、技術者、学者を送り出した帝国大学は明治以降、東京、京都など9校つくられた。台北帝国大学は、7番目の昭和3(1928)年に創設。外地では、朝鮮の京城(現韓国ソウル、大正13年予科、15年学部創設)に次いで2校目だった。
朝鮮に先を越された台湾総督府は大いに悔しがったらしい。台北帝大の初代総長に就任した歴史家・教育者の幣原坦(しではら・たいら)(1870~1953年、首相を務めた幣原喜重郎(きじゅうろう)の兄)はこう書いている。《…対岸の支那はいうまでもなく、香港にしても、フィリピンにしても、大学を有しているのみならず、朝鮮にさえ出来(でき)たという環境にある以上、我(わが)邦唯一の南洋研究所として、台湾に大学あって然(しか)るべし…》(昭和4年「自由通信」台湾号から)
台北帝大創設の動きは、内務官僚から、大正13年に第10代台湾総督に就任した伊沢多喜男(いさわ・たきお)(1869~1949年)の時代に本格化している。伊沢は、台湾総督府の初代学務部長として、同地の近代教育整備の礎(いしずえ)を築いた伊沢修二(1851~1917年)の弟だから、兄の教育の志を引き継いだと言ってもいい。
(6)「自治・自由」の台北高校(2020-06-10)

台北高の卒業証書を見せる川平朝清
トップでも難関
沖縄放送協会会長やNHK経営主幹を務めた川平朝清(かびら・ちょうせい)(92)は昭和15年、台北高校尋常科(旧制中学に相当)へ入学した。琉球王家に繋(つな)がる家柄で、祖父は、最後の尚泰王(しょう・たいおう)の側近だった。テレビなどで活躍中のジョン・カビラ、川平慈英(じえい)ら兄弟の父親である。
川平は、日本統治時代の台湾・台中生まれ。大正末期、母の親類を頼り、一家は沖縄から台湾へ移ってきた。当時は沖縄からの移住者が多かったという。
川平は台北の小学校から台北高尋常科に合格する。中高一貫7年制(尋常科4年・高等科3年)の同校の尋常科の募集定員は1クラス40人のみ。「各小学校でトップの成績でも…」と言われたほどの難関だった。
(7)日台・台高生「最後の宴」(2020-06-24)

終戦後、引き揚げ前の七星寮で「最後の宴」=昭和21年3月、(伊藤は左から2番目、黄はその右、伊藤圭典氏提供)
1枚の写真が残されている。終戦後の昭和21年3月、日本人の引き揚げを前にして、元台北高校(旧制)七星(しちせい)寮の一室に日・台の同窓生らが集(つど)った「最後の宴(うたげ)」の記念写真だ。
セルフタイマーで写真を撮ったのは台北高・四高(金沢)から京都大工学部へ進み、日本寮歌振興会事務局長を務めた伊藤圭典(けいすけ)(91)。写っている4人は同室の寮生らである。
後ろの壁には《民国35年(1946年)3月5日 別離ノ宴》《嗚呼(ああ) 我(わ)が懐(なつか)しき友よ》。そして、台湾人同窓生が書いた《伊藤君イザサラバ!!》の文字が見える。「引き揚げ前に『いよいよお別れだ』と皆で記念に撮ったのです。野菜を切って入れているのは風呂場の脱衣かご、鉄兜(かぶと)が、かまど代わり。酒は寮にあった老酒(ラオチュウ)の四合瓶(びん)。皆で一緒に寮歌を歌いました」。
(8)「ぞうさん」詩人の台湾時代(2020-07-08)

現場監督の姿で(右)=昭和5年ごろ(周南市美術博物館提供)
『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『一年生になったら』…。誰でも知っている童謡の作詞者、まど・みちおの創作者としてのキャリアは、日本統治時代の台湾で始まっている。
まどは、明治42(1909)年、山口県で生まれた。やがて一家は、父親の仕事(警察電話の敷設)で台湾へ渡るが、家庭の事情で、まどひとり、山口の祖父の家に残される。台湾の家族のもとへ合流できたのは大正8年、小学4年生になるときだった。
以来、昭和18年に33歳で出征するまで、まどは台湾の学校に通い、台湾総督府などで仕事をし、台湾の文壇に名を残した。当時の作品には台湾の自然や風俗、子供たちとの交流が投影されたものが多い。
《台湾は、私にとってはふるさとのようなところです。台湾の地図を見ると、島がちょうどゴムの葉っぱと同じ形なんです。そのことを…歌にもしました》(『百歳日記』から)
一方、『まど・みちお研究と資料』の著者、谷悦子との対談で、まどは台湾の影響を「消極的」とし、その時代の創作を「表面的」とも語っている。日本と台湾の違いを強調するのではなく、《同じ自然だ、同じ人間だ》(同対談から)というのが、まどの基本姿勢だったのだろう。