恥の矜持なき一神教、「独裁」への引導
今日、私たちは「文明」や「宗教」という美しい言葉の裏に隠された、人類史上最大級の欺瞞について直視しなければなりません。それは、一神教という名の下に続けられてきた、終わりなき「独裁」と「欺瞞」の歴史です。
かつて1600年前後の日本において、フランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちは、日本の農民たちの前で立ち尽くしました。彼らが説く「全知全能の神」は、日本国の地域に根ざして生きる、名もなき民の、あまりにも素朴で、かつ本質的な疑問の前に、無残にも論破されたのです。
「慈悲深い神が、なぜ地獄を作ったのか」
「なぜ、洗礼を受けていない先祖が地獄に落ちなければならないのか」
この問いに、宣教師の彼らは誠実に答えることができませんでした。なぜなら、彼らの神は対話を求める「真理」ではなく、ただ「我に従え」と強いる「独裁者」だったからです。
一神教の正体、それは「反省」という概念を欠いた野蛮なシステムです。論理で敗れ、農民の知性に敗北してもなお、彼らは自らの非を認めることはありません。反省とは、自らの至らなさを恥じ、己を律する人間性の証ですが、彼らのシステムにとって、間違いを認めることは独裁の崩壊、すなわち「利権の消滅」を意味するからです。
だからこそ、彼らは「殺戮」を選びました。歴史の中で繰り返された虐殺、略奪、そして捏造。自らの正しさを証明するために他者の命を奪うその姿は、宗教という名を借りた「最悪の欺瞞」に他なりません。
現在において、その醜悪さは形を変えて生き延びています。独裁的なイデオロギーを根底に持ちながら、表層では「民主主義」や「自由」をのたまう。この二重基準(ダブルスタンダード)こそ、私が最も嫌悪する、恥を知らぬ者の振る舞いであると考えています。
対して、我が国の神々は、人に「誓約」を求めません。
支配と服従の契約で人を縛る必要がないのは、日本人が「お天道様が見ている」という、内なる自律心を持っているからです。誰に強制されるでもなく、己の良心に照らして「恥」を知る。この「恥の矜持」こそが、独裁システムが逆立ちしても到達できない、真に文明的な精神の極致です。
論理破綻を欺瞞と捏造で塗り固め、パンドラの箱の底にある利権にしがみつく一神教。その姿は、もはや哀れな「裸の王様」だ。
私は、はっきりと言いたい。
「事実を前にして、なお嘘をつき続けることは、宗教家としての資質というよりも、人格そのものが一神教に乗っ取られた人形であり、汚染された最大の恥辱であると考えます。恥を知れ、と。
日本人が守り抜いてきた、このしなやかで力強い知性と矜持こそが、独裁の闇を照らし出す唯一の光であると確信し、私の思いを終わりとします。