2022年2月4日金曜日

八甲田山で発生した「怪事件」の一部始終その2

2021.07.12 現代ビジネス

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84986

凍死者の亡霊は、今も“そこ”にいる…八甲田山で発生した「怪事件」の一部始終

本当にあった怪奇事件簿⑥ その2

朝里 樹(あさざと いつき:怪異妖怪愛好家・作家)

1902年1月23日に起こった「八甲田雪中行軍遭難事件」。青森県の雪山にて、日本軍の兵士199人が死亡するという悲惨な出来事だった。事件直後から、青森県では「兵士の足音を聞いた」「幽霊を見た」といった怪談が相次いで報告されているという。

兵士たちの亡霊が現れた

有名なのは先述の新田次郎が『八甲田山 死の彷徨(ほうこう)』を書くために事件の取材をしていた際に聞いたという、彼の取材ノートに残された話だ。

それによれば雪中行軍隊が遭難した直後、青森連隊駐屯地の衛兵詰所でしばしば亡霊の足音が聞こえたという。この騒ぎは次第に広まり、衛兵を恐怖のどん底に叩き落したので、ある夜、連隊長が衛兵詰所に来て亡霊を待ち、明け方近くなって亡霊がやって来ると、声を張り上げて言った。

「雪中行軍隊の亡霊たちよ、よっく聞け。お前らの死は無駄ではなかった。お前らの死によって、厳寒期の軍装は大改革されることになったぞ。お前らは戦死者と同様に扱われ、靖国神社に合祀されることになったのだ。迷うな、心安くして眠れ。二度とこの屯営に現れることはこの連隊長が許さないぞ」

そして連隊長は軍刀を抜いて「青森歩兵第五連隊雪中行軍隊、回れ右、前へ進め!」と号令をかけた。

すると足音は次第に遠ざかり、以来一度も聞こえることはなかったという。

新田次郎が紹介したこの話は有名になり、以降様々な媒体で語られることになった。ただ実際には事件の犠牲者を靖国神社に合祀するという方針はあったものの、最終的には否決され、現在のところ彼らは靖国神社には祀られていない。


今帰ってきた、今帰ってきた

また、1973年(昭和48年)出版の北彰介編『青森県の怪談』においては、この遭難事件が起きた後、兵営の歩哨が吹雪の夜に、遠方から大勢の「寒い、寒い」という声とともに、「歩調取れ、かしらー右」と言って入って来る一団の軍靴の音を聞いた、という話が記録されている。

新田次郎が紹介した話では「回れ右、前へ進め!」という号令は生者が発したものだったが、この話では亡者の発する声のひとつとされている。青森県内でもいくつかのパターンの怪談が語られていたのだろう。

また、先述の『凍える帝国』によれば、兵舎に兵士の幽霊たちが現れる怪談は雪中行軍の出発直後から語られており、事件発生から間もない1902年(明治35年)2月6日には、「万朝報」(明治時代、東京で創刊された日刊新聞)に既に「凍死軍隊の幽霊」と題された記事が載せられていたという。

それによれば同年の1月24日の夜から、ほとんど毎夜のように歩兵第五連隊の第二大隊の兵舎の電灯が消え、また明るくなった。やがて廊下を踏み鳴らす十数人の靴音が聞こえ、どこからともなく「今帰ってきた、今帰ってきた」という声が聞こえてくる。驚いてそれを聞いた人が外に出てみると、たちまち物音は消え、人の影もない。

時として鉄砲を持ち出す音が各室に響くこともあれば、雪に埋もれる庭に進軍軍歌の声が響くこともあったという。兵士たちは心が静まらず、夜が明けるのを待って戸外へ出るが、何の名残もなく、怖がりな者は一睡もできなかったという。

また同記事では、1月25日の夕方に興津景敏大尉の官舎の玄関から外套の雪を払う音が聞こえてきたと伝えている。そこで夫人が出迎えると、大尉が立っていて「今帰った」と言う。しかし夫人が下女に焚火の用意をさせているうちに大尉の姿は消えてしまったという。

興津大尉はこの事件で犠牲になった人物の一人だ。八甲田雪中行軍遭難事件に纏わる怪談は初期のものは何らかの声や音が聞こえた、というものが多いが、この話のように幽霊が姿を現したという話もあったようだ。


兵士の霊に遭遇したカップル

そしてこの事件によって語られるようになった幽霊は、100年以上の時を経た今でも現れるという。近年有名な話は以下のようなものだろう。松谷みよ子編著『現代民話考2 軍隊・衛兵検査・新兵のころ』を参考にその概要を示そう。

あるカップルが八甲田山の「旧歩兵第五連隊雪中行軍記念像」を訪れた。この像は八甲田雪中行軍遭難事件にて生還した一人、後藤房之助伍長が山中で発見された際の姿をモデルに立てられた像で、事件の犠牲になった人々を慰めたものだという。

この像が立っている場所は今では観光地のひとつとなっている。この像を見た後、カップルの女性が付近のトイレに寄った。男性は車で待っていたが、何か物音が聞こえてきたため、目を凝らすと雪中行軍の兵士たちが闇の中から行進してきている。男性は思わず車を走らせ、逃げ出したが、置いてきた女性のことを思い出したのか、人を連れて山に戻ってきた。

既に幽霊はいなくなっており、男性は急いで女性のいるトイレに向かって声をかけたが、返事がない。そこで恐る恐る覗いてみると、女性は気を失って倒れており、あまりの恐怖のためかその髪は真っ白になっていた。それから女性は記憶を失い、その記憶は今も戻っていないという。

同書では、この話は1995年(平成7年)7月に語られたもので、さらに当時から10年ほど前にあった事件の話とされていた。実際にこの話がいつごろからあるのかは分からないが、現在でも旧歩兵第五連隊雪中行軍記念像を訪れたカップルが幽霊に遭遇するという話はよく語られている。

『凍える帝国』によれば、他にも「山中で兵士に道を聞かれた」「肩を叩かれた」という話もあったという。このように近年では、八甲田山を訪れた人々が山をさ迷う幽霊と遭遇するという話が多い。


八甲田山から来た「謎の119番通報」

そして2014年(平成26年)、八甲田山の亡霊たちが新たに注目される怪事件が起きた。

同年5月17日深夜のこと、八甲田山の無人の別荘から119番に通報があった。しかし電話の向こうからは「ざーざー」というノイズ音しか聞こえず、通報者が電話機の前で意識を失っている可能性があったため、消防隊員が現場に向かった。しかしその別荘には人が入った形跡はなく、119番通報の発信元であろう黒電話も受話器が置かれたままであったという。

この不可思議な事件は人々の想像を煽り、八甲田山という現場から八甲田雪中行軍遭難事件の兵士の霊が助けを求めて119番に通報したのではないかという噂が流れた。

この事件は電話線トラブルによるものとされているが、今も幽霊たちの仕業と信じる人も多いようだ。

八甲田雪中行軍遭難事件は来年で発生から120年目を迎える。当時の事件の被害者を直接知る人間はもういない。彼らの姿を知る者も少ないだろう。

それでも人々は八甲田山に彼らの亡霊を見るだろう。

それは山を彷徨する無念の死者たちの魂なのだろうか。それとも我々が雪山に見る幻なのだろうか。


八甲田山で発生した「怪事件」の一部始終その1

2021.07.12 現代ビジネス

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84985?imp=0


199人が雪山で凍え死んだ…世界最大級の「遭難事件」の救われない現実

本当にあった怪奇事件簿⑥ その1

朝里 樹(あさざと いつき:怪異妖怪愛好家・作家)


八甲田山で起こった悲惨な遭難事件

1902年(明治35年)1月23日、青森県の八甲田山にて、雪中行軍の演習が行われた。

対象になったのは日本陸軍第八師団青森歩兵第五連隊。来るロシアとの戦いに備え、厳寒地での行動に慣れるための訓練として始まったこの演習は、予想外の大惨事を引き起こすことになった。

今から100年以上前に起きたこの「八甲田雪中行軍遭難事件」と呼ばれる事件は、今でも映画や文学の題材となり、よく知られているところだ。今回はこの事件そのものや、事件が与えた影響を追った丸山泰明氏の著書『凍える帝国』を参考に、改めて事件の概要を記してみよう。

1月23日の朝6時半、歩兵第五連隊210名は穏やかな天候の下、青森連隊駐屯地を出発した。しかし天候は次第に悪化し、昼食の握り飯が凍り付いて食えない程の吹雪となった。この時、既に帰営するという意見もあったが、歩兵第五連隊は前進を選び、先の見えない雪景色の中を進んでいった。

しかし午後8時頃には既に露営地として設定していた田代の温泉宿に辿り着くことは不可能と判断され、露営が命じられる。しかし雪濠を作ろうにも2メートル以上掘り続けても土が見えず、仕方なく雪の上で炊事を行うと火が雪を溶かし、うまくいかない。気温は氷点下20度を下回り、酒も凍り付き、兵士たちは凍死を防ぐためにほとんど仮眠もとらずにいた。

この時、大隊長であった山口少佐が部下の神成大尉に帰営を命じたが、時は翌24日の午前1時で、まだ日が昇る時間ではなかった。午前2時半、雪中行軍隊はその暗闇の中を出発するも、すぐに進むべき道が分からなくなる。しかし彼らは帰路を求めてひたすらに進んだ。

風雪が激しく彼らの体に打ち付け、顔は凍り付き、手足の指は凍傷を発症し、やみくもな帰営は兵士たちの体力を急激に失わせていった。

やがて25日の朝が来た頃には全体の三分の一が既に命を、もう三分の一が凍傷によって体の自由を奪われていた。残る三分の一は比較的健全であったが、生き残った者たちは救援隊の集団幻覚を見るほど追い詰められていた。そして翌26日には、生き残っているのはたった3、40人となっていた。


199人もの兵士が死亡した

また、救援活動は24日には始まっていたが、第五連隊が見つかったのは27日になってからだった。最初に発見されたのは、雪の中で仮死状態のまま立っていた後藤房之助伍長で、軍医の手当てによって回復した後、雪中行軍隊の状況を伝えた。

それから捜索が進められ、雪の中に倒れている兵士が2人発見されたものの、激しくなる吹雪に阻まれ、本格的な救援活動は28日からとなった。

そして28日以降、大人数の救援隊が組織され、捜索が行われたが、雪中行軍隊210人のうち、生存したまま救助されたのは17人のみだった。さらにそのうち6人は病院に入院後、治療の甲斐なく死亡し、最終的に生きて帰ることができたのはわずか11人であったという。

また生き残った者たちの中でも、8人は凍傷のために手足を切断することになった。

生存者は2月2日以降発見されることはなく、そこからは遺体の捜索が行われたが、雪山での捜索は限界があり、最後の死体が見つかったのは雪も解けた5月28日であったという。


当時から「大ニュース」だった

この事件は当時から全国的なニュースとなり、遭難発覚後、新聞は連日事件の経過を報じ続けた。紙面では、遺体の発見や遺族による葬儀の様子などが報道された。また雑誌もこの事件を取り上げられ、多くの人々に知られることとなった。

この他にも東京の浅草では事件を再現したジオラマ(パノラマを発展させた視覚装置で、箱の中に透視図法による情景画と展示物を置き、覗くと色がついた照明などの効果により立体的な風景を生み出した装置)が、まだ遺体捜索中の2月29日に公開され、娯楽として提供された。

また2月2日にはこの事件を題材とした演劇が上映され、人気を博した。当時はリアルタイムで実際の出来事が題材にされた演劇が興行されるのは当たり前のことだったという。

このようにして、八甲田雪中行軍遭難事件はその悲惨な様相が報道されるとともに、娯楽としても人々の関心を買った。しかし現代の人々にこの事件が知られているのは、小説及び映画の影響が大きいだろう。

1971年(昭和46年)、作家の新田次郎がこの事件を詳細に取材し、『八甲田山死の彷徨』という小説を書き上げた。そしてこの小説を原作として、1977年(昭和52年)、映画『八甲田山』が公開される。

この映画は当時の日本映画における歴代配収新記録を打ち立てた。またこの映画で北大路欣也氏が演じた神田大尉の「天は我々を見放した」というセリフは当時の流行語になったという。

このように八甲田山における遭難事件は全国的に知られる事件となっている。一方、計199人もの死者を出したこの事件は、多くの怪談も生み出した。

それが、死んだ兵士たちが現れるという怪談だ。