市浦歴史民俗資料館(9:00~16:00 4月~11月無休)
市蒲村(五所川原市浦地区)に所在する十三湊遺跡が平成3~5年に行われた国立歴史民俗博物館の調査によって、北日本を代表する大規模な中世湊町であったことが明らかになり継続した発掘調査が進められています。
第一展示室 よみがえる十三湊 =領主館と周辺の様子=
第二展示室 十三湊の人々のくらし =武家屋敷と町屋の様子=
第三展示室 安藤氏の活動と精神世界 =古文書・石造物は語る=
第四展示室 映像展示コーナー =発掘は語る・十三湊=
伝承
福島城、奥州平泉の藤原秀栄(後の十三氏)が十三湊を支配したと言われ軍事的、政治的な重要な位置を占めていたと推定されています。その後、寛喜元年(1229)、安東貞季が十三氏を滅ぼし津軽地方に大きな影響力を持つようになります。
安東氏と福島城との関係も伝承にのみ伝わるだけですが200m四方の堀と土塁に囲われた内郭部分は中世に築城されたことから安東氏の居城と考られています(偽書とされる「十三湊新城記」によると正和年間:1312~1317年に安藤法季が福島城を築いたとされます)。
安東氏は特に海運に力を入れた豪族とされ北海道から本州の日本海沿岸まで貿易を広げ奥州十三湊日之本将軍や安東水軍(所謂武装した水軍では無く商船団だったと思われます)などと称され福島城の城下町となった十三湊には一大都市が築かれ活気に呈してたと言われています(福島城と十三湊とは関係が薄いという説もあります)。
伝承では暦応3年(1340)に突然大津波が起こり十三湊が一瞬のうちに海底に沈んだとされ(文献的は偽書と認定された東日流外三郡誌などで一級資料では無い。科学的調査では十三湖に津波が押し寄せた形跡は証明されていない。)、その後復興したとされますが南部家の侵攻により安東氏は次第に衰退し嘉吉3年(1443)に南部政盛の抗争に破れると一族は北海道(蝦夷地)に逃れ旧地を取り戻すことが出来ませんでした。福島城はその後廃城になったとみられ、近世以降も利用する人はいませんでした。
市蒲村(五所川原市浦地区)に所在する十三湊遺跡が平成3~5年に行われた国立歴史民俗博物館の調査によって、北日本を代表する大規模な中世湊町であったことが明らかになり継続した発掘調査が進められています。
第一展示室 よみがえる十三湊 =領主館と周辺の様子=
第二展示室 十三湊の人々のくらし =武家屋敷と町屋の様子=
第三展示室 安藤氏の活動と精神世界 =古文書・石造物は語る=
第四展示室 映像展示コーナー =発掘は語る・十三湊=
伝承
福島城、奥州平泉の藤原秀栄(後の十三氏)が十三湊を支配したと言われ軍事的、政治的な重要な位置を占めていたと推定されています。その後、寛喜元年(1229)、安東貞季が十三氏を滅ぼし津軽地方に大きな影響力を持つようになります。
安東氏と福島城との関係も伝承にのみ伝わるだけですが200m四方の堀と土塁に囲われた内郭部分は中世に築城されたことから安東氏の居城と考られています(偽書とされる「十三湊新城記」によると正和年間:1312~1317年に安藤法季が福島城を築いたとされます)。
安東氏は特に海運に力を入れた豪族とされ北海道から本州の日本海沿岸まで貿易を広げ奥州十三湊日之本将軍や安東水軍(所謂武装した水軍では無く商船団だったと思われます)などと称され福島城の城下町となった十三湊には一大都市が築かれ活気に呈してたと言われています(福島城と十三湊とは関係が薄いという説もあります)。
伝承では暦応3年(1340)に突然大津波が起こり十三湊が一瞬のうちに海底に沈んだとされ(文献的は偽書と認定された東日流外三郡誌などで一級資料では無い。科学的調査では十三湖に津波が押し寄せた形跡は証明されていない。)、その後復興したとされますが南部家の侵攻により安東氏は次第に衰退し嘉吉3年(1443)に南部政盛の抗争に破れると一族は北海道(蝦夷地)に逃れ旧地を取り戻すことが出来ませんでした。福島城はその後廃城になったとみられ、近世以降も利用する人はいませんでした。

