理趣経「十七清浄句」口語体読経訳
サンスクリット(梵語)→漢語→漢文→日本語は???どこに行ったの!
神道の「祝詞」は、聞いていてなんとなく分かるが、仏教の「読経」は何を言っているのか、さっぱり分かりません。
下記の呪文のような文言は、ざっくり言ってしまえば、「今日のお月様には笠がかぶっている」というようなイメージだ。
でも、その背景には複雑な事実が存在するわけです。それを解説するのが「僧侶」の主たる役目のような気がします。
高野山ではありませんが、比叡山のお教ではありませんが、「一隅を照らす」、という一言に付きる様な気がします。
様々な「一隅」。それぞれに、それぞれの、背景があるということだと思います。
それらを内包するのが「経」であり、単純化、簡略化した「呪文」なのではないかと思ってます。
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理趣経「十七清浄句」
妙適淸淨句是菩薩(びょうてきせいせいくしほさい)
この性の喜びも、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
慾箭淸淨句是菩薩位(よくせんせいせいくしほさい)
この欲の矢も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
觸淸淨句是菩薩位(しょくせいせいくしほさい)
この触れる感覚も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
愛縛淸淨句是菩薩位(あいはくせいせいくしほさい)
この愛着のきずなも、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
一切自在主淸淨句是菩薩位(いっせいしさいしゅせいせいくしほさい)
この一切を思いのままにする支配欲も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
見淸淨句是菩薩位(けんせいせいくしほさい)
この見る眼差しも、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
適悅淸淨句是菩薩位(てきえっせいせいくしほさい)
この心地よい満足も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
愛淸淨句是菩薩位(あいせいせいくしほさい)
この深い愛も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
慢淸淨句是菩薩位(まんせいせいくしほさい)
この誇り高ぶる心も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
莊嚴淸淨句是菩薩位(そうげんせいせいくしほさい)
この身を飾る行いも、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
意滋澤淸淨句是菩薩位(いしたくせいせいくしほさい)
この心の潤いも、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
光明淸淨句是菩薩位(こうべいせいせいくしほさい)
この輝く光も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
身樂淸淨句是菩薩位(しんらくせいせいくしほさい)
この体の快楽も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
色淸淨句是菩薩位(しょくせいせいくしほさい)
この美しい色も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
聲淸淨句是菩薩位(せいせいせいくしほさい)
この心地よい音も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
香淸淨句是菩薩位(きょうせいせいくしほさい)
この良い香りも、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
味淸淨句是菩薩位(びせいせいくしほさい)
この美味しい味も、本来は清らかで、それこそが、生きとし生けるものを救う、菩薩の境地なのだ。
理趣経が伝える**「煩悩即菩提」**という思想