青森市の昨年の梅雨明けは7月28日頃でした。ジメジメと蒸し暑い、曇り空が続いていますが、カラッとした夏の青空が待ち遠しいですね。
☆★「イベント」に関する情報★☆
◆いよいよ7月31日「青函ワールド」オープン!◆
「りんご長屋」「かつぎ屋」「たまごの露天売り」など、現在では見ることのできない昭和30年代の懐かしい風景がよみがえる「青函ワールド」が、7月31日(火)10:00、八甲田丸船内にオープンします。
オープン当日は、八甲田丸船内で、青森中央高等学校演劇部による記念公演や、浪岡中学校吹奏楽部によるキッズコンサートが行われるほか、八甲田丸前や周辺では、クラシックカーの展示やレトロバスの運行、北前船「みちのく丸」の一般公開や、冷やし生姜味噌おでんの販売、昭和のねぶたや連絡船の写真掲示など、レトロな雰囲気で皆さんのお越しをお待ちしています。
31日は、八甲田丸の入場料は無料!市内小中学生は、来年3月31日まで入場無料です!ご家族そろって、連絡船が運航していた昭和30年代の青森市にタイムトラベルしてみませんか?
〔問合せ〕交通政策課(TEL:017-761-4182)
◆今年も開催!!「青森ねぶたお祭広場」◆
今年出陣する大型ねぶたや子供ねぶたを、祭り本番よりも一足先にお披露目する「青森ねぶたお祭広場」を、7月31日(火)19:00から20:30まで開催します。31日は青函ワールドのオープン日でもありますので、昼は八甲田丸エリアを、夜はお祭り広場をお楽しみください。
〔展示場所〕大型ねぶた:新町通り、八甲通り、旧税務署通り/子どもねぶた:柳町通り
〔問合せ〕観光課(TEL:017-734-5175)
2012年7月25日水曜日
2012年7月19日木曜日
平清盛 第29回 滋子の婚礼
第29回
「滋子の婚礼」
1160(永暦元)年、平清盛(松山ケンイチ)はついに公卿(く ぎょう)の座にのぼった。それは武士として誰もなしえなかった偉業であった。新しい世の始 まりは清盛と後白河上皇(松田翔太)の長い双六遊びの新たなる始まりでもあった。
六波羅の清盛の館には衣装も立派に様変わりした一門が集まってい た。清 盛が公卿になることで一門もそれぞれ出世し、平家と呼ばれるようになった。 一方、筆頭家人の家貞(中村梅雀)は病にふせっていた。清盛は唐 果物を持って家貞を見舞うと、病床の家貞は、唐果物が食べたくて宋との交易をさかんに進めてきたと告白。
欲こそが力の源であり、欲のために生きて死んだ者たちの思いを清盛は背負って生きろと告げた。そして家貞はほどなく亡くなった。 安芸の嚴島の社で参拝した清盛は、何を祈願したかをたずねられる と、もっと強くなることと答えた。宋の銭を使いおもしろき世にしようとするために政治の頂 点に立つ力を求めていたのだ。
そして清盛は朝廷で開かれる公卿議場の場に参議として列座する身分となった。 そんなある日、清盛は美福門院得子(松雪泰子)に呼ばれ、思い描 く国造 りを聞かれた。清盛は宋と取り引きし、宋銭を国中に広め、さまざまな品を巡らせ豊か な世にすることを訴えた。美福門院は驚きながらも清盛の考えを支持する。
実は美福門院は病を得ていたが、そんなそぶりを見せずに清盛に思いを託していたの だ。そして11月、美福門院は息をひきとった。 清盛は二条天皇(冨浦智嗣)に近づくため、妻である時子(深田恭 子)の妹・滋子(成海璃子)を入内させようと画策していた。
そのころ、滋子は上西門院(愛 原実花)の女房として宮中に勤めていた。時忠(森田剛)は清盛の意を察して、二条天皇のもとへ入内しないかと妹・滋子にもちかけるが、自分は好きな人の妻となると言って拒否する。
後白河上皇は清盛から贈られた宋の青磁器を投げ捨てて、怒りをあらわにしていた。清盛が二条帝に気を配り、自分をないがしろにしていることに、腹を立てたのだ。 不満がたまった後白河は宴を催した。そこに居合わせた滋子は、今様を歌いまくる後白河上皇の姿に目をとらわれていた。その夜、院御所で滋子は朗らかに今様を歌いながら廊下を歩いていた。すると後白河に引き止められ、朗らかに歌うなと怒られる。
しかし滋子は動じず、後白河は弱く情けない、歌のほかにぶつけら れるものを見つけろと説教する。後白河は滋子の無礼を怒りながらも、心ひかれ、やがて滋子を抱きしめた。
数か月後、清盛は怒って、滋子を呼びつけた。滋子は後白河の子を 宿していたのだ。平家一門は大騒ぎ。滋子は後白河への真剣な思いを語り、時子も滋子の意思 を尊重したいと言うが清盛は許さなかった。また、上西門院も滋子の婚礼に反対した。滋子の巻き髪が上皇の妃 にふさわしくないという理由だった。
滋子はなんとか巻き髪を直そうと試みるが失敗に終わ り、ついには婚礼をやめると言いだした。そんな滋子を清盛は、困ったように見ていた。後白河は滋子の心変わりを知ってひどく落ち込んでいた。無関係を決め 込んでいた清盛は一計を案じ、滋子を連れ出す。
数日後、院御所では婚礼の宴が催された。あらわれた新婦の滋子は 宋の衣装を着て、巻き髪を宋風に美しく結いあげていた。古いしきたりにこだわらない、清盛 の発案だった。みんなが滋子に見とれ、後白河はいとしげに滋子の手を取った。そんな二人を清盛はほほ笑ましく見ていた。
平清盛が生きた平安時代末期
「滋子の婚礼」
1160(永暦元)年、平清盛(松山ケンイチ)はついに公卿(く ぎょう)の座にのぼった。それは武士として誰もなしえなかった偉業であった。新しい世の始 まりは清盛と後白河上皇(松田翔太)の長い双六遊びの新たなる始まりでもあった。
六波羅の清盛の館には衣装も立派に様変わりした一門が集まってい た。清 盛が公卿になることで一門もそれぞれ出世し、平家と呼ばれるようになった。 一方、筆頭家人の家貞(中村梅雀)は病にふせっていた。清盛は唐 果物を持って家貞を見舞うと、病床の家貞は、唐果物が食べたくて宋との交易をさかんに進めてきたと告白。
欲こそが力の源であり、欲のために生きて死んだ者たちの思いを清盛は背負って生きろと告げた。そして家貞はほどなく亡くなった。 安芸の嚴島の社で参拝した清盛は、何を祈願したかをたずねられる と、もっと強くなることと答えた。宋の銭を使いおもしろき世にしようとするために政治の頂 点に立つ力を求めていたのだ。
そして清盛は朝廷で開かれる公卿議場の場に参議として列座する身分となった。 そんなある日、清盛は美福門院得子(松雪泰子)に呼ばれ、思い描 く国造 りを聞かれた。清盛は宋と取り引きし、宋銭を国中に広め、さまざまな品を巡らせ豊か な世にすることを訴えた。美福門院は驚きながらも清盛の考えを支持する。
実は美福門院は病を得ていたが、そんなそぶりを見せずに清盛に思いを託していたの だ。そして11月、美福門院は息をひきとった。 清盛は二条天皇(冨浦智嗣)に近づくため、妻である時子(深田恭 子)の妹・滋子(成海璃子)を入内させようと画策していた。
そのころ、滋子は上西門院(愛 原実花)の女房として宮中に勤めていた。時忠(森田剛)は清盛の意を察して、二条天皇のもとへ入内しないかと妹・滋子にもちかけるが、自分は好きな人の妻となると言って拒否する。
後白河上皇は清盛から贈られた宋の青磁器を投げ捨てて、怒りをあらわにしていた。清盛が二条帝に気を配り、自分をないがしろにしていることに、腹を立てたのだ。 不満がたまった後白河は宴を催した。そこに居合わせた滋子は、今様を歌いまくる後白河上皇の姿に目をとらわれていた。その夜、院御所で滋子は朗らかに今様を歌いながら廊下を歩いていた。すると後白河に引き止められ、朗らかに歌うなと怒られる。
しかし滋子は動じず、後白河は弱く情けない、歌のほかにぶつけら れるものを見つけろと説教する。後白河は滋子の無礼を怒りながらも、心ひかれ、やがて滋子を抱きしめた。
数か月後、清盛は怒って、滋子を呼びつけた。滋子は後白河の子を 宿していたのだ。平家一門は大騒ぎ。滋子は後白河への真剣な思いを語り、時子も滋子の意思 を尊重したいと言うが清盛は許さなかった。また、上西門院も滋子の婚礼に反対した。滋子の巻き髪が上皇の妃 にふさわしくないという理由だった。
滋子はなんとか巻き髪を直そうと試みるが失敗に終わ り、ついには婚礼をやめると言いだした。そんな滋子を清盛は、困ったように見ていた。後白河は滋子の心変わりを知ってひどく落ち込んでいた。無関係を決め 込んでいた清盛は一計を案じ、滋子を連れ出す。
数日後、院御所では婚礼の宴が催された。あらわれた新婦の滋子は 宋の衣装を着て、巻き髪を宋風に美しく結いあげていた。古いしきたりにこだわらない、清盛 の発案だった。みんなが滋子に見とれ、後白河はいとしげに滋子の手を取った。そんな二人を清盛はほほ笑ましく見ていた。
平清盛が生きた平安時代末期
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