【産経抄】2018-12-19
「●(からだ)の上に大きな消しゴムが乗っかっている」。向田邦子さんのエッセー『消しゴム』は、奇抜な書き出しで一気に読者の心をつかむ。消しゴムの正体は、後半になって明かされる。
▼ガスストーブからもれていたガスだった。向田さんは、渾身(こんしん)の力を振りしぼって窓を開け空気を入れて、九死に一生を得た。名人芸と呼ぶしかない締めくくりの文章を、ぜひ作品で確かめていただきたい。
▼札幌市豊平区の不動産店の従業員は、「大きな消しゴム」に気がつかないまま湯沸かし器の火をつけたらしい。約120本のスプレーのガス抜きを行った後、手を洗おうとしたという。16日の爆発事故は、その直後に発生した。
▼北海道警は、部屋に充満したスプレーのガスに引火した可能性があるとみている。不動産店が入居する木造2階建ての建物は、全焼した。隣の居酒屋では火が回って階段が使えなくなり、2階にいた客は床が落ちてようやく脱出できた。42人が負傷、死者が出なかったことだけが幸いである。
▼昭和56年に飛行機事故で亡くなった向田さんのエッセーからは、昭和の匂いが立ち上る。七輪の網の上で焼け焦げるみりん干し、鹿児島で暮らしたころ、毎日食卓にのぼった薩摩揚げ…。それぞれの家には、特有の匂いがあった。不動産店の従業員がガス抜きしていたのは、それを消すためのスプレーだった。物件の入居時に使われるのだろう。
▼スプレーには、かつて不燃性のフロンガスが使われていた。地球のオゾン層保護のために、液化石油ガスなどの可燃性ガスに切り替わったのは、約30年前からだ。平成がまもなく終わり、昭和がますます遠くなる。生活は格段に快適になったとはいえ、ガス事故の恐怖からは、いまだ逃れられない。
●=躯の旧字体