2012年5月18日金曜日

平清盛 第19回 鳥羽院の遺言

第19回

鳥羽院の遺言


誰も予想していなかった後白河天皇(松田翔太)が誕生し、朝廷は大騒ぎになる。後白河天皇の乳父(めのと)である信西(阿部サダヲ)はにわかに朝廷内で存在感を増していく。そんな波乱の始まりに、平清盛(松山ケンイチ)は不安を抱く。またも期待を裏切られた崇徳上皇(井浦新)は鳥羽法皇(三上博史)に激しい恨みを募らせた。だがその一方、後白河即位を決定した鳥羽法皇自身も自責の念にかられていた。左大臣・藤原頼長(山本耕史)は、帝(みかど)を決める場に立ち会えなかったばかりか、亡くなった近衛帝を呪詛(じゅそ)していたという風聞が立ち、朝廷内での立場が危うくなっていく。

そのころ源義朝(玉木宏)は、息子の義平(波岡一喜)を差し向けて異母弟・義賢(阪本浩之)を討ち取り、源氏の棟りょうの証しである「友切」を奪い取る。これを聞いた為義(小日向文世)は激怒。為義・義朝父子の関係は修復不可能となる。

ある日、清盛の館に時子(深田恭子)の妹・滋子(成海璃子)がやってきた。その美しさに平氏一門は見とれる。時忠(森田剛)は滋子を貴人の妻にしたいと清盛に言うが、滋子は身分に関係なく好きな相手に嫁ぐと言い放つ。後日、清盛は池禅尼(いけのぜんに:和久井映見)を訪れ、滋子の強さをほめた。そして、決裂している鳥羽法皇と崇徳上皇を実の父子でなくても家族になれることを知る自分が和解させたいと語る。

1155年10月、後白河帝が正式に即位。宴(うたげ)の席に崇徳上皇から祝いの歌が届けられる。しかし、実はその歌に新しい帝への憎しみが込められていることを見抜いた後白河帝は怒って暴れだす。その姿に亡き白河院を見た鳥羽法皇は激しく取り乱し、これまで蓄積した心労もあいまって伏せってしまう。
見舞いに訪れた清盛に鳥羽法皇は、もしも何かあったときには御所を守れと命じるが、清盛は謝罪の気持ちを崇徳上皇に伝えてはと勧める。そして鳥羽法皇の写経を手に崇徳上皇を訪ねた清盛は、法皇がみずからの所業を悔いていることを伝える。しかし写経は、崇徳上皇によって破かれてしまう。

翌年になると、鳥羽法皇の病はさらに悪化した。そんな中、崇徳上皇の挙兵が都でうわさになり、信西は都中の武士に鳥羽法皇に忠誠を誓うための誓紙を出すように命じた。清盛はその命令に対し、平氏は鳥羽法皇と崇徳上皇のどちらにもつかず、二人を和解させることを改めて宣言するが、一門は不安にかられていた。池禅尼は忠正(豊原功補)に、いざというときは亡き忠盛の志を守ってくれと頼んだ。

一方、義朝は鳥羽法皇への誓紙を書くが、その直後に為義の家臣・鎌田通清(金田明夫)にその行為を責められる。源氏が仕える左大臣・頼長の立場がわからぬ現状で誓紙を書くことは危険であるからだった。しかし義朝は意に介さない。さらに通清は義朝に為義との和解を勧めるが、義朝は拒否する。その様子を見て義朝と行動をともにしてきた鎌田正清(趙珉和)も義朝のもとを去った。

その後、やりきれない義朝は清盛を訪ねる。そこで清盛の子どもたちの仲むつまじい様子をうらやましく見つめた。義朝が鳥羽法皇への誓紙を書いたことを告げると、清盛は鳥羽法皇と崇徳上皇を和解させるべきだと反論。すると義朝は、この混乱こそが武士が出世する好機だと叫んだ。

そのころ、崇徳上皇のもとを美福門院得子(松雪泰子)が訪れていた。崇徳上皇が院政を行う最初の機会を奪った張本人だった得子は、息子である近衛帝がよう折したのは自分が無理に帝につけたからかもしれないと悔やみ、もう長くない鳥羽法皇との和解を崇徳上皇に訴えた。

今度は清盛を信西が訪ねていた。誓紙を書かない清盛に、世の流れは大乱に向かっていると告げ、自分がもっとも守りたいものはなんなのかを見定めろとさとす。その言葉は清盛に重くのしかかった。

7月、鳥羽法皇の危篤の報が都を駆け巡った。そして鳥羽法皇のもとへ崇徳上皇がかけつけた。しかし、警固の兵たちが崇徳上皇を通さない。強引に中へ入ろうとする崇徳上皇の前に立ちふさがったのは清盛だった。清盛は崇徳上皇に向かい、すでに遅かったこと、自分にも守るべきものがあることを告げ、剣を向けた。清盛は平氏一門を守るため、誓紙を書いていたのだ。そして鳥羽法皇は亡くなった。雨の中、濡れてさまよう崇徳上皇に近づいたのは頼長だった。鳥羽法皇の崩御により、くすぶっていた火種それぞれが炎をあげ、都を戦に巻き込んでいく。














平清盛が生きた平安時代末期