2012年12月7日金曜日

平清盛 第41回 「賽の目の行方」

第41回放送

「賽の目の行方」

1176(安元2年)、平清盛(松山ケンイチ)と後 白河法皇(松田翔太)との関係をとりもってきた建春門院滋子(成海璃子)が急死した。今後も後白河法皇との関係を良好に保つため、高倉天皇(千葉雄大)の 中宮となった清盛の娘・徳子(二階堂ふみ)が皇子を産むことを願う清盛だが、徳子に懐妊の兆しはなかった。そこへ、不穏な知らせが舞い込む。後白河法皇 が、仏門に入っていた2人の息子を都に呼び戻し、高倉天皇の養子にしたというのだ。それは高倉天皇を政治の場から遠ざけるための布石のように清盛は感じ た。

清盛は長男・重盛(窪田正孝)を後白河法皇のもとへさしむけ、法皇へ の忠誠心を訴えるとともに、四男・知盛(小柳友)を蔵人頭にするよう頼むが、後白河法皇は受け入れない。

危機感を募らせた清盛は、友好関係にある比叡山の僧・明雲(腹筋善之 介)を呼び出し、いざというときには力を貸すよう念を押す。

伊豆では、頼朝(岡田将生)のことが気になる政子 (杏)が、頼朝に源氏重代の太刀を見せてくれと懇願した。その熱意に押された頼朝は太刀を見せ、強き父・義朝(玉木宏)の記憶を話し始める。そんな父も清 盛に敗れ、伊豆に流された自分にはもはや無念さしか残されていないと語る。そんな頼朝に政子は、東国武士のために立ち上がるべきだと訴えるが、頼朝は清盛 という男の恐ろしさを語るのみだった。

1177年、後白河法皇は千僧供養のため福原を訪ねた。清盛とのわだ かまりは消えたかに思えたが、後白河法皇は、「もうここへは来ない」と清盛に告げる。清盛はいざという時がきたことを覚悟した。

やがて明雲の命を受けた山法師による強訴が起きる。訴えの内容は、法 皇の側近・西光(加藤虎ノ介)の2人の息子を流罪にせよというもの。加賀守目代である息子・師経(清水優)が加賀にある比叡山の末寺ともめた際、焼き打ち にしたことがその理由であった。

後白河法皇は重盛に強訴鎮圧を命じる。重盛は即座に兵を内裏に配置す るが、清盛と比叡山との良好関係にも配慮し、あくまでおどしをかけるだけにしろと命じる。しかし、兵たちは強訴の集団と衝突する中で、神聖な神輿(しん よ)に矢を射てしまう。

内裏には矢が刺さった神輿が、運び込まれていた。神 罰が下ると恐れる公卿たちは、比叡山の要求どおり西光の息子たちを流罪とする決定を下す。重盛は福原の清盛の元へ行き謝罪するが、清盛は逆によくやったと 重盛をほめた。そもそも一連の事件は清盛が明雲と仕組んだもの。西光の息子を流罪にして西光の力を削ぎ、西光が仕える後白河法皇の力を削ぐという企てだっ たのだ。
清盛の王家に対する忠誠心を疑問に思う重盛は、清盛に真意を問うと、賽の目は変わる ものだとはぐらかす。

一方、後白河法皇は今回の事件が清盛の企てによるものだと見抜き、側 近の西光や成親(吉沢悠)ともども平家に対する憎悪を深めていた。
この事件はすぐに伊豆にも伝わった。改めて平家の恐ろしさを感じた北条時政(遠藤憲 一)は政子を呼び出し、平家にゆかりのある家に嫁ぐことをすすめた。

京の鞍馬寺にいる遮那王(のちの義経:神木隆之介) は僧になるのをためらっていた。かつて五条大橋で武蔵坊弁慶(青木崇高)と出会った際、自分が源義朝の子であることを知ったからだ。平家を倒そうという弁 慶の誘いをその時は断ったが、いつまでも遮那王の心に引っかかっていた。
誰もが清盛の力の前に屈するしかなかった。しかし平家への不満は募る一方であった。 そんななか、京の鹿ヶ谷にある山荘には平家を憎悪する人々が集まっていた。その中には西光や成親、そして後白河法皇の姿もあった。















平清盛が生きた平安時代末期