皆さん。本日、私は皆さんに、2000年にわたり人類の精神を支配し、同時に歪め続けてきた「史上最大のギルド」の崩壊についてお話ししなければなりません。その組織の名は、バチカン。ローマ・カトリック教会です。
私たちは、一人の純粋な男の悲劇から目を背けてはなりません。イエス・キリスト。彼は富を求めず、権力を憎み、持てるすべてを捨てて貧しい者や虐げられた者に寄り添えと説きました。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」と無抵抗を貫き、最後は時の特権階級によって十字架にかけられた、純粋な理想主義者でした。しかし、そのキリスト亡き後の歴史はどうでしょうか。
後世の人間たちは、彼の「愛」や「救い」の教えを都合よく拡大解釈し、捏造し、自分たちの私利私欲を満たすための便利な道具として利用し尽くしたのです。イエスが最も嫌い、命をかけて戦ったはずの「宗教特権階級」そのものに、バチカンは成り下がりました。
「全知全能の神が、なぜ悪魔を作ったのか」この、誰の目にも明らかな論理的破綻を、キリスト教世界は「神の神秘」というブラックボックスに逃げ込んで煙に巻き続けてきました。
しかし、1600年代の日本人は、その欺瞞を完璧に見抜いていました。不干斎ハビアンの『破提宇子(はだいうす)』に代表されるように、当時の日本の知識層は「すべてを知り、何でもできる神が、なぜ最初の人間が騙されるのを止めなかったのか」という矛盾を突き、彼らの教理を完全に論破したのです。
『破提宇子』(はだいうす)は、1620年(元和6年)、棄教した元イエズス会イルマンのハビアンが、将軍徳川秀忠へ献上するために著したキリシタン批判の書。「はでうす」「はぜうす」とも読む。題名はキリシタンの神・提宇子(Deusのあて字)を論破するという意味。全文の構成は7段からなり、デウスの実在性、霊魂や天国・地獄、アダムとイブの説話、キリストの出生・十戒などについて記述し、その中でキリスト教の批判を試みている。
しかし、西欧の教会はそれを認めませんでした。なぜか。そこには、東洋の島国に自分たちの絶対的な神が論破されたという事実を、逆立ちしても認めたくないという、欧州中心主義の傲慢さと歪んだプライドがあったからです。気に入らないから、認めない。その器の小さい自己保身こそが、彼らの本質です。
そして、その傲慢さの裏にあるのは、底知れない利権欲です。バチカンは「自分たちは絶対に間違えない」という都合の良い建前(無謬性(むびゅうせい))を盾に、世界中の信徒から富を吸い上げました。
1517年、マルティン・ルターが命がけで告発した「免罪符(贖宥状(しょくゆうじょう)の販売」を見れば、当時の彼らがどれほど腐敗した金権ギルドであったかは白日の下に晒されています。
彼らの利権欲と保身は、世界中を血で染めました。地中海世界では、「聖戦」という大義名分を掲げた十字軍が、同じキリスト教国やイスラムの世界を襲い、財宝を強奪しました。
大航海時代には、教皇が勝手に地球に線を引き、アジアや新世界の土地と富をスペイン・ポルトガルに独占させるお墨付きを与えました。
彼らは「異教徒を救う」という甘い言葉で欲望をコーティングし、反抗する者を「悪魔の仕業」として虐殺しました。これこそが、全ヨーロッパで4万人から6万人もの無実の女性たちを虐殺した「魔女狩り」というジェノサイドの正体です。
バチカンはこれらすべての事実を知っていました。確信犯だったのです。しかし、彼らは500年以上もの間、その罪を放置し、隠蔽し続けました。なぜなら、一度でも間違いを認め、キリストの原点に立ち返って謝罪してしまえば、自分たちの独自の銀行、世界中の莫大な不動産、国家としての外交特権という「巨大な利権」がすべてドミノ倒しのように崩壊し、組織が消滅すると分かっているからです。
彼らはキリストよりも、自分たちの組織の延命を優先したのです。現在のローマ教皇がどれほど現地に赴いて謝罪パフォーマンスをしようとも、独自の資産や国家の枠組みを維持している以上、それは組織存続のためのギリギリの妥協、すなわち「詭弁」に過ぎません。
一神教というシステムは、すべて矛盾を抱え、制度疲労を起こし、歴史的に破綻しました。それはもはや、現代の倫理観には耐えられない、過去の歪な慰めに過ぎません。今こそ、バチカンはその欺瞞を認め、全世界に向けて自らの「解散」を発信すべきです。
信者たちに対して「私たちはあなた方を騙し、キリストを裏切っていました」と土下座し、その組織としての命を自ら絶つべきです。神の名の下に行われた500年の収奪と詐欺に、今こそ終わりの時を決断する時なのです。
組織を解体し、ただ人間としての普遍的な道徳のエッセンスだけを抽出して、EU人は新しい精神の世界へ進むべきなのです。キリストという最大の被害者の魂を、今こそ彼らの利権の手から解放するべきなのです。。
そして、鳥居の奥の社へ安置し、皆でキリストの教義を再考するのです。