2022年2月4日金曜日

八甲田山で発生した「怪事件」の一部始終その1

2021.07.12 現代ビジネス

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84985?imp=0


199人が雪山で凍え死んだ…世界最大級の「遭難事件」の救われない現実

本当にあった怪奇事件簿⑥ その1

朝里 樹(あさざと いつき:怪異妖怪愛好家・作家)


八甲田山で起こった悲惨な遭難事件

1902年(明治35年)1月23日、青森県の八甲田山にて、雪中行軍の演習が行われた。

対象になったのは日本陸軍第八師団青森歩兵第五連隊。来るロシアとの戦いに備え、厳寒地での行動に慣れるための訓練として始まったこの演習は、予想外の大惨事を引き起こすことになった。

今から100年以上前に起きたこの「八甲田雪中行軍遭難事件」と呼ばれる事件は、今でも映画や文学の題材となり、よく知られているところだ。今回はこの事件そのものや、事件が与えた影響を追った丸山泰明氏の著書『凍える帝国』を参考に、改めて事件の概要を記してみよう。

1月23日の朝6時半、歩兵第五連隊210名は穏やかな天候の下、青森連隊駐屯地を出発した。しかし天候は次第に悪化し、昼食の握り飯が凍り付いて食えない程の吹雪となった。この時、既に帰営するという意見もあったが、歩兵第五連隊は前進を選び、先の見えない雪景色の中を進んでいった。

しかし午後8時頃には既に露営地として設定していた田代の温泉宿に辿り着くことは不可能と判断され、露営が命じられる。しかし雪濠を作ろうにも2メートル以上掘り続けても土が見えず、仕方なく雪の上で炊事を行うと火が雪を溶かし、うまくいかない。気温は氷点下20度を下回り、酒も凍り付き、兵士たちは凍死を防ぐためにほとんど仮眠もとらずにいた。

この時、大隊長であった山口少佐が部下の神成大尉に帰営を命じたが、時は翌24日の午前1時で、まだ日が昇る時間ではなかった。午前2時半、雪中行軍隊はその暗闇の中を出発するも、すぐに進むべき道が分からなくなる。しかし彼らは帰路を求めてひたすらに進んだ。

風雪が激しく彼らの体に打ち付け、顔は凍り付き、手足の指は凍傷を発症し、やみくもな帰営は兵士たちの体力を急激に失わせていった。

やがて25日の朝が来た頃には全体の三分の一が既に命を、もう三分の一が凍傷によって体の自由を奪われていた。残る三分の一は比較的健全であったが、生き残った者たちは救援隊の集団幻覚を見るほど追い詰められていた。そして翌26日には、生き残っているのはたった3、40人となっていた。


199人もの兵士が死亡した

また、救援活動は24日には始まっていたが、第五連隊が見つかったのは27日になってからだった。最初に発見されたのは、雪の中で仮死状態のまま立っていた後藤房之助伍長で、軍医の手当てによって回復した後、雪中行軍隊の状況を伝えた。

それから捜索が進められ、雪の中に倒れている兵士が2人発見されたものの、激しくなる吹雪に阻まれ、本格的な救援活動は28日からとなった。

そして28日以降、大人数の救援隊が組織され、捜索が行われたが、雪中行軍隊210人のうち、生存したまま救助されたのは17人のみだった。さらにそのうち6人は病院に入院後、治療の甲斐なく死亡し、最終的に生きて帰ることができたのはわずか11人であったという。

また生き残った者たちの中でも、8人は凍傷のために手足を切断することになった。

生存者は2月2日以降発見されることはなく、そこからは遺体の捜索が行われたが、雪山での捜索は限界があり、最後の死体が見つかったのは雪も解けた5月28日であったという。


当時から「大ニュース」だった

この事件は当時から全国的なニュースとなり、遭難発覚後、新聞は連日事件の経過を報じ続けた。紙面では、遺体の発見や遺族による葬儀の様子などが報道された。また雑誌もこの事件を取り上げられ、多くの人々に知られることとなった。

この他にも東京の浅草では事件を再現したジオラマ(パノラマを発展させた視覚装置で、箱の中に透視図法による情景画と展示物を置き、覗くと色がついた照明などの効果により立体的な風景を生み出した装置)が、まだ遺体捜索中の2月29日に公開され、娯楽として提供された。

また2月2日にはこの事件を題材とした演劇が上映され、人気を博した。当時はリアルタイムで実際の出来事が題材にされた演劇が興行されるのは当たり前のことだったという。

このようにして、八甲田雪中行軍遭難事件はその悲惨な様相が報道されるとともに、娯楽としても人々の関心を買った。しかし現代の人々にこの事件が知られているのは、小説及び映画の影響が大きいだろう。

1971年(昭和46年)、作家の新田次郎がこの事件を詳細に取材し、『八甲田山死の彷徨』という小説を書き上げた。そしてこの小説を原作として、1977年(昭和52年)、映画『八甲田山』が公開される。

この映画は当時の日本映画における歴代配収新記録を打ち立てた。またこの映画で北大路欣也氏が演じた神田大尉の「天は我々を見放した」というセリフは当時の流行語になったという。

このように八甲田山における遭難事件は全国的に知られる事件となっている。一方、計199人もの死者を出したこの事件は、多くの怪談も生み出した。

それが、死んだ兵士たちが現れるという怪談だ。